ワワフラミンゴ「ハートのふゆ合戦」を観た

作品よりもひとりごとに近いものに最近は執着している。そういう時期が定期的にくる。ちゃんとした物語があるだけで疲れを感じる時期。

 

ワワフラミンゴの前にやった演目で、日記を書いてるが誰にも見られないように汚い字で書いているというくだりがあって、ワワフラミンゴは演劇自体がそのようなものだと思った。そう思ったのは時間がたって今回の「ハートのふゆ合戦」を見てからだ。そのときは日記のくだりでただわらっただけだった。タイトルを忘れてしまった前のやつはとくに、ストーリーらしいストーリーもなくて、ぽんとシーンがあって、それが次につながることもなくすぐにたち消えていった。

 


ワワフラミンゴは作品としてのフォルムをはっきりさせないでいる。抽象的にして芸術性を高めようとしているのではなくて、作者がただぼんやりとしたまま話を進めているという印象がある。そうあることでものがたりに熱中するわけでもなく、展開を追うわけでもなく、ただそのときの漠然とした会話、それもほとんど意味のない会話、たとえば地獄の三種の神器のはなしとか、鳩にとっては丸い窓が好ましく、登場人物(というか鳩)たちが今住んでいる町の窓が四角い窓ばかりで文句をいっているのとか、普通に好きなくだものの話、前に読んだことある本の作家の名前を思い出そうとして、本を手にとって、やっぱり読んだことがある、というようなことを、作品にまとめたら落とされるようなシーンばかりでとりあえずその場をつないでいくというようなスタイルができている。本筋があってもこのようなシーンをおいていくことはできるが、でもそうするとあくまでも遊びのシーンになるが、ワワフラミンゴはそのような細切れの夢うつつのギャグにもならない現象ともいえるようなシーンが本筋自体を忘れさせるワワフラミンゴたらしめているものになってくる。今回のは本筋はサブとして一応ある。

 


作品としての善し悪しではワワフラミンゴについては考えられない。そうではなくてもっと作品以前の日常的な世界認識に近いもの。書くことがないときに日記を書き始めたときにとりあえず頭のなかに浮かんできたものから発展していくような感じ、はっきりとした形をとってしまったときにはすでに消えているものがあると思わされる、そのすでに消えてしまう煙のようなもので自分のほとんどは構成されているのではないかと思えてくる。まだ表にでてきていない内的会話を少しだけ早く外に出したときの台詞、笑えるシーンもたくさんあるけど、笑いもないシーンも多い、相手に届かせる気もない内的会話に近い台詞がワワフラミンゴはいいと思う。