濱口竜介「ハッピーアワー」を観た

5時間の映画で途中休憩が2回入る。1部、2部、3部それぞれ1000円の完全入れ替え性なので1部2部と終わるごとにみんな外に出ないといけなくて、イメージフォーラムは青山学院大学が近いからその学生が多いのか若い学生の可愛い女の子が多く映画館の横の路地で若い女の子たちが何人もたばこを吸っている風景は最近ではなかなかみない光景だった。

 

ハッピーアワーは主役が4人、全員37歳の女友達4人のそれぞれの話。そのうちひとりは離婚済み、ひとりが離婚裁判中、ひとりが夫婦が優しく冷めている、ひとりが夫が仕事がすべてという人間で、全員家庭に同じような問題を抱えている。

 

基本的に主役たちの目線から描かれるものだからそう思えるのかもしれないけど、一見すべて男が悪いとされる。夫は妻の気持ちなど分からないし、分からないことも知らないし、分かっているかどうか考えるべきかという発想がそもそもない、そして夫婦の乖離が生まれていく。というと普通の映画だけど、この描き方がすごい。

 

このような話の場合、男を馬鹿で露悪的に描けば済むものだが、この映画に出てくる男たちは、みな理知的で思いやりがあり、我慢強く、誠心誠意妻と向き合っていように見える。それは私が男だからそうみえるのかもしれない。しかし女たちはそう思わない。離婚裁判中の女は弁術で、夫はわたしを殺した、空気に話しかけているのと変わらなった、7年かけてゆっくりと殺された、というようなことまで言う、しかしその後に学者の夫がトークショーにでたときのトークが本当に魅力的でこんなに人の心を繊細に観察して話せる人が妻の精神を殺すようには見えない。しかし見えるのだ。この人がこの能力を持ちながらも夫婦生活を続けられなかった、妻から見放された理由は全シーンから伝わってくる。

 

男は表と裏の顔があるような感じではない。男が誠意や愛情を持っていても、そもそも持っている性質によって夫婦の断絶が起こっている。救済不可能なものに感じる。

 

はじめは、監督は、男の理解力を哀れむようなフェミっぽい感じなのかなとも思ったけれど、女たちを逆に悪として描いているのかもとも思った。しかしそのどちらも違うのかもしれない。女が孤独を感じ、男は愛情の無力さ感じる。どちらが悪いというわけでなく、受難のようなものとしてそこにある。

 

朝、妻が浮気をしてきたということを夫に告白して夫は何も言い返すことができず、仕事に出かけようとして、家の階段を踏み外す。妻が夫を立ち上がらせる。妻は夫が家を出ていくまえに、わたしは家を出たいわけではなく、求め続ける限り妻として息子を育て働いていくという。妻は夫に見放しているわけではなく愛情を抱いている。夫は会社に向かう途中で横断歩道の前に立ち止まると、そこで涙が出てきて、しゃがみ込んで腕で顔をおおう。